お釈迦様は瞑想を行うことで思考を止めて、煩悩を払い悟りを開きました。庵野秀明のようなクリーエーターや芸術家はその創作活動で「神様」を降ろして新しい表現を獲得します。瞑想と創作、どうやらこの両者には共通するものがありそうです。またアカシックレコードのようなものもありそうです。
これらに共通するのはいずれも目には見えないものだということです。別の言葉で言い換えると、科学では説明できない、ということです。
今更いうまでもなく、とりわけ過去数百年、人類は科学を発展させてきました。科学の基本は観察です。まず対象物をよく見て克明に観察することから始まります。観察して対象の性質を見極める。そして分類を行い、法則を導き出します。そうした研究の進め方には必ず論理が要求されます。どの過程にも論理が貫徹していなければならないのです。したがって観察できないものはそもそも科学の対象にはなりません。目に見えないものは、科学至上主義のような価値観でみるとまるで論ずるに足らない、意味のないものなのです。ですが、人間にとって一番大切なものは心であり精神です。そしてその大切な心や精神は目には見えません。
科学の発展は物質的な豊かさを生み、人間の生活を大きく変えました。しかしその反面、精神的な幸福や安定が失われてしまったのです。それは科学の発展を求めるあまり心の比重が下がってしまった結果なのかもしれません。
そしていま、これからは心の時代だと言われています。物質偏重の時代が終わり、精神に重きがおかれる時代だということです。
ジャーナリストの中野博氏は私塾を開いているそうですが、そこの塾生たちにはYouTubeを薦めているそうです。2021年はYouTubeを見るだけではなく自ら投稿せよと。
筆者が想像するに、おそらく大事なのは自己を表現するということであって、その媒体・手法はYouTubeではなくてもかまわないのだろうと思います。ただ今現在は最も有力な媒体が
YouTubeなのでそれを薦めているということでしょう。
なぜ中野博氏が自己表現をすることを塾生たちに求めているかその真意を筆者はよく知りませんが、自己表現をすることによって庵野秀明と同じように「神様」を降ろす、つまりこれまでの常識にとらわれない新しい発想やアイデアを積極的に獲得しようということなのではないでしょうか。新しい時代、すなわち心の時代の始まりでスタートダッシュをしてゆくためにそれが求められるということなのだと思います。
これからは目に見えないものの力をどんどん使ってゆく時代になるということかもしれません。
アカシックレコード
筆者は30年以上ITエンジニアをしてきました。とても進歩の早い領域なのですが、ITエンジニアのベテランたちが持っている能力は、試行錯誤をしながら営々と積み上げてきた技術や知識があって発揮されるものです。
当然、ITの世界にも毎年新人が入ってきます。ベテランたちはこの新人たちに自分が長年に亘って培ってきた技術や経験を教えなければなりません。ところが不思議なことに新人たちは先輩たちからそうしたものを注入されなくてもすでにそれを身に着けているのです。彼らが新人として戸惑うのは仕事をする上での勘所のようなもので、それさえ掴んでしまえばそれだけで彼らは十分活躍できるのです。つまりベテランたちが苦労して獲得してきたものを彼らは最初から持って登場してくるのです。しかもその使い方についてはベテランたちが舌を巻くほど上手です。
彼ら新人は学校教育などでそういう教育を受けてきたのでしょうか。そうではないはずです。新人たちの多くは情報処理の専門教育を受けていない門外漢です。彼らは学校では法律や語学や簿記などを勉強してきて、就職に際してたまたまIT業界を選んだに過ぎません。そんな彼らはいったいどこでITの技術を身に着けてきたのでしょうか。おそらくこの疑問に対して、明快な答えを出せる人はいないのではないかと思います。
推測できることは、人間の進歩、つまり経験の蓄積や技術の革新は、常に人類全体に共有されているのではないかということです。そしてその共有が機能すれば、それについて後続の若い人がそれぞれ一から学ばなくてもよくなるのです。ベテランたちが100の努力をして積み上げたものを若い人は1の努力で吸収できる、そんなイメージです。たぶんこれはIT業界に限らずどんな分野でも同様であるはずです。
「アカシックレコード」という概念がまさにこれなのではないでしょうか。アカシックレコードとは、人間だけでないすべての実体と生命体の、過去、現在に発生した普遍的な出来事、思考、言葉、感情のすべての記録であり、非物理的な何かにその記録がある、とされているものです。もしこうした存在がほんとうにあり、新しく生まれてくる人はこのアカシックレコードを読んだうえで地球上に人間として誕生するのだとすれば、上述の疑問は説明できるでしょう。あるいは、若い人々は毎晩の睡眠中にこのアカシックレコードを必要に応じて読みに行っているのかもしれません。
ここで大切なことは、もしこのアカシックレコードというものがあったとしても私たちはそれを意識的には利用できないということです。つまりここにも思考の限界があるかもしれません。
当然、ITの世界にも毎年新人が入ってきます。ベテランたちはこの新人たちに自分が長年に亘って培ってきた技術や経験を教えなければなりません。ところが不思議なことに新人たちは先輩たちからそうしたものを注入されなくてもすでにそれを身に着けているのです。彼らが新人として戸惑うのは仕事をする上での勘所のようなもので、それさえ掴んでしまえばそれだけで彼らは十分活躍できるのです。つまりベテランたちが苦労して獲得してきたものを彼らは最初から持って登場してくるのです。しかもその使い方についてはベテランたちが舌を巻くほど上手です。
彼ら新人は学校教育などでそういう教育を受けてきたのでしょうか。そうではないはずです。新人たちの多くは情報処理の専門教育を受けていない門外漢です。彼らは学校では法律や語学や簿記などを勉強してきて、就職に際してたまたまIT業界を選んだに過ぎません。そんな彼らはいったいどこでITの技術を身に着けてきたのでしょうか。おそらくこの疑問に対して、明快な答えを出せる人はいないのではないかと思います。
推測できることは、人間の進歩、つまり経験の蓄積や技術の革新は、常に人類全体に共有されているのではないかということです。そしてその共有が機能すれば、それについて後続の若い人がそれぞれ一から学ばなくてもよくなるのです。ベテランたちが100の努力をして積み上げたものを若い人は1の努力で吸収できる、そんなイメージです。たぶんこれはIT業界に限らずどんな分野でも同様であるはずです。
「アカシックレコード」という概念がまさにこれなのではないでしょうか。アカシックレコードとは、人間だけでないすべての実体と生命体の、過去、現在に発生した普遍的な出来事、思考、言葉、感情のすべての記録であり、非物理的な何かにその記録がある、とされているものです。もしこうした存在がほんとうにあり、新しく生まれてくる人はこのアカシックレコードを読んだうえで地球上に人間として誕生するのだとすれば、上述の疑問は説明できるでしょう。あるいは、若い人々は毎晩の睡眠中にこのアカシックレコードを必要に応じて読みに行っているのかもしれません。
ここで大切なことは、もしこのアカシックレコードというものがあったとしても私たちはそれを意識的には利用できないということです。つまりここにも思考の限界があるかもしれません。
思考を止めて猿になれ
ここまで読んでこられて、こんな疑問が湧いてきてはいませんでしょうか。
「思考を止めて猿になれ、というのか」と。
そうです、猿になれたら私たちはとても幸せになるかもしれません。しかし私たちはおそらく猿にはなれない。なにせ七万年前に生じた前頭皮質の突然変異とその後の文化・文明は一朝一夕には変えられません。これがある以上、どんなに頑張っても私たちは猿にはなれません。
でも仮に猿になれる可能性がもしあったとしたらどうでしょうか。おそらくあなたも私もたぶん猿になるという選択肢を選ぶことはないでしょう。それはなぜか。今の人間の生活はけっこう安定しているからです。この安定については先にも述べましたが、過去の経験を元に私たちが日々毎瞬引き寄せて作っているものですから、それを手放す気にはなれないのです。でも一方、それだけでは常に不足を感じ、不満であり、場合によっては不幸を感じてしまうという矛盾の中に私たちはあります。
ここでもう一度、七万年前に話に戻りましょう。洞窟の壁に絵を描く、住居を作る、副葬品とともに死んだ人を埋葬する、そういった文化的な活動を表す遺跡というものは七万年前以前にはないそうです。七万年前の突然変異によってなぜ人類の文化的な創造が花を開いたのでしょうか。過去に規定された思考をすることで安定した将来を設計することができるわけですが、そこには革新が生じる要素がありません。単純に過去を未来へ持ち越すだけでは文化的な創造や発展にはつながらないのです。それを可能にする要素はどこにあるのでしょうか。
それこそ思考の停止なのです。思考を止めることで私たちは過去から解き放たれて自由になります。そしてその自由が、ある程度の「今を生きる」状況を生み出し、私たちに新しい発想や新しい表現をもたらしてくれるのではないでしょうか。庵野秀明がいう「神様が降りる」というのはそういう状況なのではないかと思うのです。
「思考を止めて猿になれ、というのか」と。
そうです、猿になれたら私たちはとても幸せになるかもしれません。しかし私たちはおそらく猿にはなれない。なにせ七万年前に生じた前頭皮質の突然変異とその後の文化・文明は一朝一夕には変えられません。これがある以上、どんなに頑張っても私たちは猿にはなれません。
でも仮に猿になれる可能性がもしあったとしたらどうでしょうか。おそらくあなたも私もたぶん猿になるという選択肢を選ぶことはないでしょう。それはなぜか。今の人間の生活はけっこう安定しているからです。この安定については先にも述べましたが、過去の経験を元に私たちが日々毎瞬引き寄せて作っているものですから、それを手放す気にはなれないのです。でも一方、それだけでは常に不足を感じ、不満であり、場合によっては不幸を感じてしまうという矛盾の中に私たちはあります。
ここでもう一度、七万年前に話に戻りましょう。洞窟の壁に絵を描く、住居を作る、副葬品とともに死んだ人を埋葬する、そういった文化的な活動を表す遺跡というものは七万年前以前にはないそうです。七万年前の突然変異によってなぜ人類の文化的な創造が花を開いたのでしょうか。過去に規定された思考をすることで安定した将来を設計することができるわけですが、そこには革新が生じる要素がありません。単純に過去を未来へ持ち越すだけでは文化的な創造や発展にはつながらないのです。それを可能にする要素はどこにあるのでしょうか。
それこそ思考の停止なのです。思考を止めることで私たちは過去から解き放たれて自由になります。そしてその自由が、ある程度の「今を生きる」状況を生み出し、私たちに新しい発想や新しい表現をもたらしてくれるのではないでしょうか。庵野秀明がいう「神様が降りる」というのはそういう状況なのではないかと思うのです。
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