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2021-04-12

思考を止めて猿になれ

 ここまで読んでこられて、こんな疑問が湧いてきてはいませんでしょうか。
「思考を止めて猿になれ、というのか」と。
 そうです、猿になれたら私たちはとても幸せになるかもしれません。しかし私たちはおそらく猿にはなれない。なにせ七万年前に生じた前頭皮質の突然変異とその後の文化・文明は一朝一夕には変えられません。これがある以上、どんなに頑張っても私たちは猿にはなれません。
 でも仮に猿になれる可能性がもしあったとしたらどうでしょうか。おそらくあなたも私もたぶん猿になるという選択肢を選ぶことはないでしょう。それはなぜか。今の人間の生活はけっこう安定しているからです。この安定については先にも述べましたが、過去の経験を元に私たちが日々毎瞬引き寄せて作っているものですから、それを手放す気にはなれないのです。でも一方、それだけでは常に不足を感じ、不満であり、場合によっては不幸を感じてしまうという矛盾の中に私たちはあります。
 ここでもう一度、七万年前に話に戻りましょう。洞窟の壁に絵を描く、住居を作る、副葬品とともに死んだ人を埋葬する、そういった文化的な活動を表す遺跡というものは七万年前以前にはないそうです。七万年前の突然変異によってなぜ人類の文化的な創造が花を開いたのでしょうか。過去に規定された思考をすることで安定した将来を設計することができるわけですが、そこには革新が生じる要素がありません。単純に過去を未来へ持ち越すだけでは文化的な創造や発展にはつながらないのです。それを可能にする要素はどこにあるのでしょうか。
 それこそ思考の停止なのです。思考を止めることで私たちは過去から解き放たれて自由になります。そしてその自由が、ある程度の「今を生きる」状況を生み出し、私たちに新しい発想や新しい表現をもたらしてくれるのではないでしょうか。庵野秀明がいう「神様が降りる」というのはそういう状況なのではないかと思うのです。

2021-04-06

今を生きていますか?

 最近、「今を生きる」という言葉によく触れるようになりました。筆者がこの言葉に最初に出会ったのは約二十年前でした。2002年の大森美香の脚本になるドラマ「ロング・ラブレター〜漂流教室〜」はTV史に燦然と輝く(べき)傑作でしたが、このドラマの冒頭のシーンでこの言葉が出てきます。教師が「今を生きろ」と黒板に大書するシーンで始まるのです。筆者はこれまでこのドラマを何回も繰り返し視てきたのですが「今を生きろ」の意味が今ひとつ掴めませんでした。しかし二十年の時を経て、ようやくこの言葉が多少腑に落ちるようになってきたのです。
 あなたは今を生きているでしょうか。もちろん誰にでも今という時間はあります。それは常にあり、私たちは死んでおらず、ゆえに誰もが今を生きている、それは当たり前のことです。
 しかし私たちは今を生きることが実はできていません。ほとんどの人ができていないのです。
 それはどういうことかというと私たちには過去の記憶があるということなのです。私たちは過去の記憶や経験を基礎にして将来を見通し、その結論として現在の行動をとっています。それが当然であり、それでこそ立派であると思っています。むしろより優秀になるためにもっと過去からたくさん学ばなくてはならない、とまで思っています。もちろんそれは将来を安定的なものにするために大きな効果を発揮しているはずです。しかし同時にそこに私たちの限界が存在しているわけです。
 つまり、こうした行動様式を採用している以上、私たちが進む未来は常に過去に規定された将来でしかないということになるのです。
 庵野秀明が「自分の作るものは面白くない」というのはそういうことを言っているのだと思われます。「自分の作るもの」とは自分の知っているものであって、それは同時に皆が知っているものでもあるわけです。つまりそれはすでに過去のものであって、過去のものをいくら上手に並べてみても人々が衝撃を受けるようなものにはならないでしょう。
 つまり私たちは過去から解放された形で今を生きることができていない、というわけなのです。

2021-04-05

創作の表現、それは誰が行うのか?

 小説を書き始めて改めて実感することがあります。それは自分が書いているものは自分の創作ではないということです。筆がスラスラと進む時に書いている内容は、自分の思考の中にはないものばかりなのです。自分の思考力の産物ではないならば、それはどこから生まれたものなのだろう。実はそれがまったくハッキリとしないのです。それは、いわゆる「降りてきた」ものであって、自分の思考の範囲を明らかに超えているのです。

 先日、「シン・エヴァンゲリオン」を作成する庵野秀明を追跡したドキュメンタリー番組をテレビで視ました。彼が書いた脚本の一部分が思わしくないので書き直すことになり、制作が暗礁に乗り上げてしまった局面が撮られていました。新しい脚本を早く欲しがるスタッフたちの前で、彼はこう呟いたのです。
「……書けない。神様が降りて来ない……」
 また彼の一貫した姿勢として「自分が作るものは面白くない。自分が作れないものを作らないといけない。」としきりに語っています。
 やはり小説にしろ映像にしろ、それが芸術的表現を必要とするならば、もはや作者の頭脳の中から出てくるものでは価値がなく、作者の思考を超越した領域から与えられたものだけが表現として意味のある内容になるということのようなのです。そしてその超越した領域に存在する者を庵野は「神様」という言葉で表しているわけです。もちろんそれは宗教的神を意味しないでしょう。またその言葉はおそらく仮に用いられた言葉であると思われます。
 ではその「神」とはなんなのか、そして自分の思考とはなんなのか、それをしばらく考えてみようと思うのです。