お釈迦様は瞑想を行うことで思考を止めて、煩悩を払い悟りを開きました。庵野秀明のようなクリーエーターや芸術家はその創作活動で「神様」を降ろして新しい表現を獲得します。瞑想と創作、どうやらこの両者には共通するものがありそうです。またアカシックレコードのようなものもありそうです。
これらに共通するのはいずれも目には見えないものだということです。別の言葉で言い換えると、科学では説明できない、ということです。
今更いうまでもなく、とりわけ過去数百年、人類は科学を発展させてきました。科学の基本は観察です。まず対象物をよく見て克明に観察することから始まります。観察して対象の性質を見極める。そして分類を行い、法則を導き出します。そうした研究の進め方には必ず論理が要求されます。どの過程にも論理が貫徹していなければならないのです。したがって観察できないものはそもそも科学の対象にはなりません。目に見えないものは、科学至上主義のような価値観でみるとまるで論ずるに足らない、意味のないものなのです。ですが、人間にとって一番大切なものは心であり精神です。そしてその大切な心や精神は目には見えません。
科学の発展は物質的な豊かさを生み、人間の生活を大きく変えました。しかしその反面、精神的な幸福や安定が失われてしまったのです。それは科学の発展を求めるあまり心の比重が下がってしまった結果なのかもしれません。
そしていま、これからは心の時代だと言われています。物質偏重の時代が終わり、精神に重きがおかれる時代だということです。
ジャーナリストの中野博氏は私塾を開いているそうですが、そこの塾生たちにはYouTubeを薦めているそうです。2021年はYouTubeを見るだけではなく自ら投稿せよと。
筆者が想像するに、おそらく大事なのは自己を表現するということであって、その媒体・手法はYouTubeではなくてもかまわないのだろうと思います。ただ今現在は最も有力な媒体が
YouTubeなのでそれを薦めているということでしょう。
なぜ中野博氏が自己表現をすることを塾生たちに求めているかその真意を筆者はよく知りませんが、自己表現をすることによって庵野秀明と同じように「神様」を降ろす、つまりこれまでの常識にとらわれない新しい発想やアイデアを積極的に獲得しようということなのではないでしょうか。新しい時代、すなわち心の時代の始まりでスタートダッシュをしてゆくためにそれが求められるということなのだと思います。
これからは目に見えないものの力をどんどん使ってゆく時代になるということかもしれません。
アカシックレコード
筆者は30年以上ITエンジニアをしてきました。とても進歩の早い領域なのですが、ITエンジニアのベテランたちが持っている能力は、試行錯誤をしながら営々と積み上げてきた技術や知識があって発揮されるものです。
当然、ITの世界にも毎年新人が入ってきます。ベテランたちはこの新人たちに自分が長年に亘って培ってきた技術や経験を教えなければなりません。ところが不思議なことに新人たちは先輩たちからそうしたものを注入されなくてもすでにそれを身に着けているのです。彼らが新人として戸惑うのは仕事をする上での勘所のようなもので、それさえ掴んでしまえばそれだけで彼らは十分活躍できるのです。つまりベテランたちが苦労して獲得してきたものを彼らは最初から持って登場してくるのです。しかもその使い方についてはベテランたちが舌を巻くほど上手です。
彼ら新人は学校教育などでそういう教育を受けてきたのでしょうか。そうではないはずです。新人たちの多くは情報処理の専門教育を受けていない門外漢です。彼らは学校では法律や語学や簿記などを勉強してきて、就職に際してたまたまIT業界を選んだに過ぎません。そんな彼らはいったいどこでITの技術を身に着けてきたのでしょうか。おそらくこの疑問に対して、明快な答えを出せる人はいないのではないかと思います。
推測できることは、人間の進歩、つまり経験の蓄積や技術の革新は、常に人類全体に共有されているのではないかということです。そしてその共有が機能すれば、それについて後続の若い人がそれぞれ一から学ばなくてもよくなるのです。ベテランたちが100の努力をして積み上げたものを若い人は1の努力で吸収できる、そんなイメージです。たぶんこれはIT業界に限らずどんな分野でも同様であるはずです。
「アカシックレコード」という概念がまさにこれなのではないでしょうか。アカシックレコードとは、人間だけでないすべての実体と生命体の、過去、現在に発生した普遍的な出来事、思考、言葉、感情のすべての記録であり、非物理的な何かにその記録がある、とされているものです。もしこうした存在がほんとうにあり、新しく生まれてくる人はこのアカシックレコードを読んだうえで地球上に人間として誕生するのだとすれば、上述の疑問は説明できるでしょう。あるいは、若い人々は毎晩の睡眠中にこのアカシックレコードを必要に応じて読みに行っているのかもしれません。
ここで大切なことは、もしこのアカシックレコードというものがあったとしても私たちはそれを意識的には利用できないということです。つまりここにも思考の限界があるかもしれません。
当然、ITの世界にも毎年新人が入ってきます。ベテランたちはこの新人たちに自分が長年に亘って培ってきた技術や経験を教えなければなりません。ところが不思議なことに新人たちは先輩たちからそうしたものを注入されなくてもすでにそれを身に着けているのです。彼らが新人として戸惑うのは仕事をする上での勘所のようなもので、それさえ掴んでしまえばそれだけで彼らは十分活躍できるのです。つまりベテランたちが苦労して獲得してきたものを彼らは最初から持って登場してくるのです。しかもその使い方についてはベテランたちが舌を巻くほど上手です。
彼ら新人は学校教育などでそういう教育を受けてきたのでしょうか。そうではないはずです。新人たちの多くは情報処理の専門教育を受けていない門外漢です。彼らは学校では法律や語学や簿記などを勉強してきて、就職に際してたまたまIT業界を選んだに過ぎません。そんな彼らはいったいどこでITの技術を身に着けてきたのでしょうか。おそらくこの疑問に対して、明快な答えを出せる人はいないのではないかと思います。
推測できることは、人間の進歩、つまり経験の蓄積や技術の革新は、常に人類全体に共有されているのではないかということです。そしてその共有が機能すれば、それについて後続の若い人がそれぞれ一から学ばなくてもよくなるのです。ベテランたちが100の努力をして積み上げたものを若い人は1の努力で吸収できる、そんなイメージです。たぶんこれはIT業界に限らずどんな分野でも同様であるはずです。
「アカシックレコード」という概念がまさにこれなのではないでしょうか。アカシックレコードとは、人間だけでないすべての実体と生命体の、過去、現在に発生した普遍的な出来事、思考、言葉、感情のすべての記録であり、非物理的な何かにその記録がある、とされているものです。もしこうした存在がほんとうにあり、新しく生まれてくる人はこのアカシックレコードを読んだうえで地球上に人間として誕生するのだとすれば、上述の疑問は説明できるでしょう。あるいは、若い人々は毎晩の睡眠中にこのアカシックレコードを必要に応じて読みに行っているのかもしれません。
ここで大切なことは、もしこのアカシックレコードというものがあったとしても私たちはそれを意識的には利用できないということです。つまりここにも思考の限界があるかもしれません。
思考を止めて猿になれ
ここまで読んでこられて、こんな疑問が湧いてきてはいませんでしょうか。
「思考を止めて猿になれ、というのか」と。
そうです、猿になれたら私たちはとても幸せになるかもしれません。しかし私たちはおそらく猿にはなれない。なにせ七万年前に生じた前頭皮質の突然変異とその後の文化・文明は一朝一夕には変えられません。これがある以上、どんなに頑張っても私たちは猿にはなれません。
でも仮に猿になれる可能性がもしあったとしたらどうでしょうか。おそらくあなたも私もたぶん猿になるという選択肢を選ぶことはないでしょう。それはなぜか。今の人間の生活はけっこう安定しているからです。この安定については先にも述べましたが、過去の経験を元に私たちが日々毎瞬引き寄せて作っているものですから、それを手放す気にはなれないのです。でも一方、それだけでは常に不足を感じ、不満であり、場合によっては不幸を感じてしまうという矛盾の中に私たちはあります。
ここでもう一度、七万年前に話に戻りましょう。洞窟の壁に絵を描く、住居を作る、副葬品とともに死んだ人を埋葬する、そういった文化的な活動を表す遺跡というものは七万年前以前にはないそうです。七万年前の突然変異によってなぜ人類の文化的な創造が花を開いたのでしょうか。過去に規定された思考をすることで安定した将来を設計することができるわけですが、そこには革新が生じる要素がありません。単純に過去を未来へ持ち越すだけでは文化的な創造や発展にはつながらないのです。それを可能にする要素はどこにあるのでしょうか。
それこそ思考の停止なのです。思考を止めることで私たちは過去から解き放たれて自由になります。そしてその自由が、ある程度の「今を生きる」状況を生み出し、私たちに新しい発想や新しい表現をもたらしてくれるのではないでしょうか。庵野秀明がいう「神様が降りる」というのはそういう状況なのではないかと思うのです。
「思考を止めて猿になれ、というのか」と。
そうです、猿になれたら私たちはとても幸せになるかもしれません。しかし私たちはおそらく猿にはなれない。なにせ七万年前に生じた前頭皮質の突然変異とその後の文化・文明は一朝一夕には変えられません。これがある以上、どんなに頑張っても私たちは猿にはなれません。
でも仮に猿になれる可能性がもしあったとしたらどうでしょうか。おそらくあなたも私もたぶん猿になるという選択肢を選ぶことはないでしょう。それはなぜか。今の人間の生活はけっこう安定しているからです。この安定については先にも述べましたが、過去の経験を元に私たちが日々毎瞬引き寄せて作っているものですから、それを手放す気にはなれないのです。でも一方、それだけでは常に不足を感じ、不満であり、場合によっては不幸を感じてしまうという矛盾の中に私たちはあります。
ここでもう一度、七万年前に話に戻りましょう。洞窟の壁に絵を描く、住居を作る、副葬品とともに死んだ人を埋葬する、そういった文化的な活動を表す遺跡というものは七万年前以前にはないそうです。七万年前の突然変異によってなぜ人類の文化的な創造が花を開いたのでしょうか。過去に規定された思考をすることで安定した将来を設計することができるわけですが、そこには革新が生じる要素がありません。単純に過去を未来へ持ち越すだけでは文化的な創造や発展にはつながらないのです。それを可能にする要素はどこにあるのでしょうか。
それこそ思考の停止なのです。思考を止めることで私たちは過去から解き放たれて自由になります。そしてその自由が、ある程度の「今を生きる」状況を生み出し、私たちに新しい発想や新しい表現をもたらしてくれるのではないでしょうか。庵野秀明がいう「神様が降りる」というのはそういう状況なのではないかと思うのです。
お釈迦様とチンパンジー
それでは私たちが再び「今を生きる」ことができるようになるためにはどうすればよいのでしょうか。
その一つが脳の働きを止めることです。すでにみてきたように私たちは七万年前から過去に縛られて生活してきました。その生活の中で脳を活発に使って来たわけですから、その活動は非常に強力であるはずです。しかしこの脳の働きを僅かにでも止めることができれば、その分「今を生きる」ことができるようになるはずです。
これを実践したのがお釈迦様だと思います。お釈迦様は、煩悩を捨てよ、とおっしゃいました。煩悩にとらわれるから生老病死の苦しみが生じる。したがって今ある苦しみから逃れたいのなら煩悩を捨てなければならない、ということです。
実際に「煩悩を捨てよ」と述べられたのか、後世にそう伝わっているだけなのかわわかりませんが、この教えはほんとうは逆説なのではないでしょうか。先に煩悩を捨てるのではなく、「今を生きる」ことが先に来て、煩悩から離れるが結果として生じる、のではないかと思うのです。
事故に遭って下半身が不随になってしまったチンパンジーの話を聞きました。そのチンパンジーは自由に動けなくなっても少しもしょげたりすることはなかったそうです。あいかわらずいたずら好きで、事故の前と同じように瞳を輝かせて楽しそうに生きていたそうです。「今を生きる」ことができる彼らは、体に支障のなかった過去を懐かしんだりもしませんし、体が不自由だからと将来に不安を感じたりもしないとのことです。つまり彼らには生老病死の苦しみも煩悩などもないのです。
そしてお釈迦様が実践したのが瞑想です。瞑想することで無心になる。つまり脳の働きを止める、思考をやめるということです。確かにチンパンジーは人間のようにあれこれとややこしいことを考えてはいないようです。
その一つが脳の働きを止めることです。すでにみてきたように私たちは七万年前から過去に縛られて生活してきました。その生活の中で脳を活発に使って来たわけですから、その活動は非常に強力であるはずです。しかしこの脳の働きを僅かにでも止めることができれば、その分「今を生きる」ことができるようになるはずです。
これを実践したのがお釈迦様だと思います。お釈迦様は、煩悩を捨てよ、とおっしゃいました。煩悩にとらわれるから生老病死の苦しみが生じる。したがって今ある苦しみから逃れたいのなら煩悩を捨てなければならない、ということです。
実際に「煩悩を捨てよ」と述べられたのか、後世にそう伝わっているだけなのかわわかりませんが、この教えはほんとうは逆説なのではないでしょうか。先に煩悩を捨てるのではなく、「今を生きる」ことが先に来て、煩悩から離れるが結果として生じる、のではないかと思うのです。
事故に遭って下半身が不随になってしまったチンパンジーの話を聞きました。そのチンパンジーは自由に動けなくなっても少しもしょげたりすることはなかったそうです。あいかわらずいたずら好きで、事故の前と同じように瞳を輝かせて楽しそうに生きていたそうです。「今を生きる」ことができる彼らは、体に支障のなかった過去を懐かしんだりもしませんし、体が不自由だからと将来に不安を感じたりもしないとのことです。つまり彼らには生老病死の苦しみも煩悩などもないのです。
そしてお釈迦様が実践したのが瞑想です。瞑想することで無心になる。つまり脳の働きを止める、思考をやめるということです。確かにチンパンジーは人間のようにあれこれとややこしいことを考えてはいないようです。
今を生きられない二つの理由
私たちが「今を生きる」ことのできない理由としては、こうした社会的理由の他にもうひとつ個体的な側面での理由があります。
それは私たちが普段とっているの何気ない行動の多くは習慣に基づいています。つまり、今までこうしてきたから、とか、これまでこのやり方で問題がなかったから、という理由で過去の行動と同じ行動を私たちは取ります。こうした習慣による行動選択によって、昨日と同じような今日を、今日と同じような明日を私たちは作り出しています。それはとても安定した日常であってある面ではたいへん心地よい結果を生み出しているわけです。
また、もう少し消極的な思考の習慣もあります。それは、失敗を繰り返したくない、ということです。例えば幼い時に猫に引っ掻かれて痛い思いをした経験があるとそれがトラウマとなって、大人になってもなぜか猫が苦手で近寄ることができなくなったりする、といったことです。猫が苦手、という程度のことであればさほど生活に支障はきたしませんが、異性に関してのことや、金銭に関してのこととなると私たちの人生に重大な影響が生じてくるでしょう。例えば子どもの頃、80円のノートを買うからと言って親にお金をもらったとします。いざお店に行ってノートを見てみたら100円のものがとても欲しくなってそちらを買って帰ったら、親にこっぴどく叱られてしまいました。誰にも似たような経験はあると思いますが、その時の状況によっては心に強い傷ができてしまうこともあるでしょう。そうなると大人になっても常に一番欲しいものはあきらめてそれより安いもので我慢するというような行動パターンができてしまったりするでしょう。その結果、大胆にお金を消費するリスクは避けられますが、その代わりいつも不満に満ちた生活を送ることになってしまうのです。しかも多くの場合、こうしたことは普段の生活の中で意識には昇らない潜在的な領域でその記憶が処理されています。その都度思い出しているとそのたびに過去のつらい経験を追体験して毎回苦しい思いをしてしまうからです。
このように意識できるものと意識できないものの両方で私たちは無数の習慣を持っています。こうした習慣はすべて過去に根拠があるものなので、こうした個人的な原因からも私たちは過去に縛られており「今を生きる」ことができていないのです。
それは私たちが普段とっているの何気ない行動の多くは習慣に基づいています。つまり、今までこうしてきたから、とか、これまでこのやり方で問題がなかったから、という理由で過去の行動と同じ行動を私たちは取ります。こうした習慣による行動選択によって、昨日と同じような今日を、今日と同じような明日を私たちは作り出しています。それはとても安定した日常であってある面ではたいへん心地よい結果を生み出しているわけです。
また、もう少し消極的な思考の習慣もあります。それは、失敗を繰り返したくない、ということです。例えば幼い時に猫に引っ掻かれて痛い思いをした経験があるとそれがトラウマとなって、大人になってもなぜか猫が苦手で近寄ることができなくなったりする、といったことです。猫が苦手、という程度のことであればさほど生活に支障はきたしませんが、異性に関してのことや、金銭に関してのこととなると私たちの人生に重大な影響が生じてくるでしょう。例えば子どもの頃、80円のノートを買うからと言って親にお金をもらったとします。いざお店に行ってノートを見てみたら100円のものがとても欲しくなってそちらを買って帰ったら、親にこっぴどく叱られてしまいました。誰にも似たような経験はあると思いますが、その時の状況によっては心に強い傷ができてしまうこともあるでしょう。そうなると大人になっても常に一番欲しいものはあきらめてそれより安いもので我慢するというような行動パターンができてしまったりするでしょう。その結果、大胆にお金を消費するリスクは避けられますが、その代わりいつも不満に満ちた生活を送ることになってしまうのです。しかも多くの場合、こうしたことは普段の生活の中で意識には昇らない潜在的な領域でその記憶が処理されています。その都度思い出しているとそのたびに過去のつらい経験を追体験して毎回苦しい思いをしてしまうからです。
このように意識できるものと意識できないものの両方で私たちは無数の習慣を持っています。こうした習慣はすべて過去に根拠があるものなので、こうした個人的な原因からも私たちは過去に縛られており「今を生きる」ことができていないのです。
七万年前になにがあったのか
人類が文化的な創造をし始めたのは七万年前だということです。どうやら七万年前に脳の前頭前皮質に起こった奇妙な突然変異が、時間を相対的に把握する能力を人間に与えたといわれています。つまり人類はそのことがあってから、過去を悔やみ、未来に不安を抱くようになったのだということです。
今日は食べ物が豊富にあったとしましょう。七万年よりも前の人々は、それを素直に喜んだでしょう。当時の人々は「今を生きる」ことができていた、と思われるのです。
しかしそれよりあとの人間たちは、過去にひもじい思いをした経験を思い出して「いま目の前にある豊富な食料は明日もあるとは限らない」と思い不安にかられるのです。その不安感に強く駆り立てられて人間はさまざまなものを作り始めました。備蓄をするようになり食品加工が始まりました。すべてを食べきることをやめて、残した種を地面に蒔きました。農業による再生産が始まったのです。そしてそのためにたくさんの道具を作ったわけです。さらにそうしたなりわいが着実な成果をもたらすように祈りを行い始めました。宗教の誕生です。さらにはそうした一連のことを効率的に運用するために、組織を作り分業をするようになりました。その結果が現代の私たちの生活なのです。
こうして私たちは今を生きることをやめ、七万年が経ちました。
今日は食べ物が豊富にあったとしましょう。七万年よりも前の人々は、それを素直に喜んだでしょう。当時の人々は「今を生きる」ことができていた、と思われるのです。
しかしそれよりあとの人間たちは、過去にひもじい思いをした経験を思い出して「いま目の前にある豊富な食料は明日もあるとは限らない」と思い不安にかられるのです。その不安感に強く駆り立てられて人間はさまざまなものを作り始めました。備蓄をするようになり食品加工が始まりました。すべてを食べきることをやめて、残した種を地面に蒔きました。農業による再生産が始まったのです。そしてそのためにたくさんの道具を作ったわけです。さらにそうしたなりわいが着実な成果をもたらすように祈りを行い始めました。宗教の誕生です。さらにはそうした一連のことを効率的に運用するために、組織を作り分業をするようになりました。その結果が現代の私たちの生活なのです。
こうして私たちは今を生きることをやめ、七万年が経ちました。
今を生きていますか?
最近、「今を生きる」という言葉によく触れるようになりました。筆者がこの言葉に最初に出会ったのは約二十年前でした。2002年の大森美香の脚本になるドラマ「ロング・ラブレター〜漂流教室〜」はTV史に燦然と輝く(べき)傑作でしたが、このドラマの冒頭のシーンでこの言葉が出てきます。教師が「今を生きろ」と黒板に大書するシーンで始まるのです。筆者はこれまでこのドラマを何回も繰り返し視てきたのですが「今を生きろ」の意味が今ひとつ掴めませんでした。しかし二十年の時を経て、ようやくこの言葉が多少腑に落ちるようになってきたのです。
あなたは今を生きているでしょうか。もちろん誰にでも今という時間はあります。それは常にあり、私たちは死んでおらず、ゆえに誰もが今を生きている、それは当たり前のことです。
しかし私たちは今を生きることが実はできていません。ほとんどの人ができていないのです。
それはどういうことかというと私たちには過去の記憶があるということなのです。私たちは過去の記憶や経験を基礎にして将来を見通し、その結論として現在の行動をとっています。それが当然であり、それでこそ立派であると思っています。むしろより優秀になるためにもっと過去からたくさん学ばなくてはならない、とまで思っています。もちろんそれは将来を安定的なものにするために大きな効果を発揮しているはずです。しかし同時にそこに私たちの限界が存在しているわけです。
つまり、こうした行動様式を採用している以上、私たちが進む未来は常に過去に規定された将来でしかないということになるのです。
庵野秀明が「自分の作るものは面白くない」というのはそういうことを言っているのだと思われます。「自分の作るもの」とは自分の知っているものであって、それは同時に皆が知っているものでもあるわけです。つまりそれはすでに過去のものであって、過去のものをいくら上手に並べてみても人々が衝撃を受けるようなものにはならないでしょう。
つまり私たちは過去から解放された形で今を生きることができていない、というわけなのです。
あなたは今を生きているでしょうか。もちろん誰にでも今という時間はあります。それは常にあり、私たちは死んでおらず、ゆえに誰もが今を生きている、それは当たり前のことです。
しかし私たちは今を生きることが実はできていません。ほとんどの人ができていないのです。
それはどういうことかというと私たちには過去の記憶があるということなのです。私たちは過去の記憶や経験を基礎にして将来を見通し、その結論として現在の行動をとっています。それが当然であり、それでこそ立派であると思っています。むしろより優秀になるためにもっと過去からたくさん学ばなくてはならない、とまで思っています。もちろんそれは将来を安定的なものにするために大きな効果を発揮しているはずです。しかし同時にそこに私たちの限界が存在しているわけです。
つまり、こうした行動様式を採用している以上、私たちが進む未来は常に過去に規定された将来でしかないということになるのです。
庵野秀明が「自分の作るものは面白くない」というのはそういうことを言っているのだと思われます。「自分の作るもの」とは自分の知っているものであって、それは同時に皆が知っているものでもあるわけです。つまりそれはすでに過去のものであって、過去のものをいくら上手に並べてみても人々が衝撃を受けるようなものにはならないでしょう。
つまり私たちは過去から解放された形で今を生きることができていない、というわけなのです。
創作の表現、それは誰が行うのか?
小説を書き始めて改めて実感することがあります。それは自分が書いているものは自分の創作ではないということです。筆がスラスラと進む時に書いている内容は、自分の思考の中にはないものばかりなのです。自分の思考力の産物ではないならば、それはどこから生まれたものなのだろう。実はそれがまったくハッキリとしないのです。それは、いわゆる「降りてきた」ものであって、自分の思考の範囲を明らかに超えているのです。
先日、「シン・エヴァンゲリオン」を作成する庵野秀明を追跡したドキュメンタリー番組をテレビで視ました。彼が書いた脚本の一部分が思わしくないので書き直すことになり、制作が暗礁に乗り上げてしまった局面が撮られていました。新しい脚本を早く欲しがるスタッフたちの前で、彼はこう呟いたのです。
「……書けない。神様が降りて来ない……」
また彼の一貫した姿勢として「自分が作るものは面白くない。自分が作れないものを作らないといけない。」としきりに語っています。
やはり小説にしろ映像にしろ、それが芸術的表現を必要とするならば、もはや作者の頭脳の中から出てくるものでは価値がなく、作者の思考を超越した領域から与えられたものだけが表現として意味のある内容になるということのようなのです。そしてその超越した領域に存在する者を庵野は「神様」という言葉で表しているわけです。もちろんそれは宗教的神を意味しないでしょう。またその言葉はおそらく仮に用いられた言葉であると思われます。
ではその「神」とはなんなのか、そして自分の思考とはなんなのか、それをしばらく考えてみようと思うのです。
先日、「シン・エヴァンゲリオン」を作成する庵野秀明を追跡したドキュメンタリー番組をテレビで視ました。彼が書いた脚本の一部分が思わしくないので書き直すことになり、制作が暗礁に乗り上げてしまった局面が撮られていました。新しい脚本を早く欲しがるスタッフたちの前で、彼はこう呟いたのです。
「……書けない。神様が降りて来ない……」
また彼の一貫した姿勢として「自分が作るものは面白くない。自分が作れないものを作らないといけない。」としきりに語っています。
やはり小説にしろ映像にしろ、それが芸術的表現を必要とするならば、もはや作者の頭脳の中から出てくるものでは価値がなく、作者の思考を超越した領域から与えられたものだけが表現として意味のある内容になるということのようなのです。そしてその超越した領域に存在する者を庵野は「神様」という言葉で表しているわけです。もちろんそれは宗教的神を意味しないでしょう。またその言葉はおそらく仮に用いられた言葉であると思われます。
ではその「神」とはなんなのか、そして自分の思考とはなんなのか、それをしばらく考えてみようと思うのです。
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